Sky High

これからの時代を生き抜くためにいかにしていくべきか、時局や歴史や法則様々な観点から独自の調査をもとに洞察を深めながら記していきます。皆様の感性に良い刺激となれば光栄です。

満月


今日は満月。

皆様にも良い一日になりますように。

#17 宗教とは必要なのだろうか?

宗教とは必要なのだらうかという問いに対して、宗教は必要ないと言うのであれば、人間は必要ないものをも創造するということになってしまうので、それでは人間としての幸せを求めるという存在意味が崩壊してしまう。


では、何故宗教だいうものが存在しているのかを考えなければならない。


それは簡単なことで、人間が本質的に求めている世界を追求するためとしか考えられない。だから、それを研究する学問としてけいせいされたものであろう。


世界三代宗教としてキリスト教、イスラム教、仏教、ヒンドゥー教とあるがそれぞれ中心人物は存在するが、それを宗教と組織したのは後の人たちである。


純粋に、教えを研究しするために当初は形成されたのであろうが、一方で国などの権力者が人々をコントロールする為の道具のように使う側面も存在する。


宗教一つ見ても、それを見つめる人の動機によってそれは自分や周りの人たちの真の幸福のためか、自己の利益や保身の為か。それにより全く違う意味合いを持つ事をまずは理解しないといけない。


信仰者においてもまた、価値観が違ってくる事がある。


様々な宗教は教えがあり、守るべき事を決められている事が多い。されども、教えや遵守事項をそのまま鵜呑みにして信徒だという人も居れば、本当に形だけでする人もいる。これらは、全く進歩のない例であり、殆どの人がこの類であろう。


教えの本当の意味合いとは何か?

何故遵守事項を守らねばならないのか?

その意味を捉えながら生活し、記された教えを生活で実践し、全てが本当に腑に落ちるまで歩んでいる人は少ないのではないかと思う。


実際、著名な坊主であったり神父であっても金銭問題、色情問題、権力問題など平気で被っているではないか。

宗教とは本質的な幸せを追求するものでありながら、自分の問題に蓋をしていては本末転倒であろう。過ちを犯しても、懺悔して再度歩むのが本当の信仰者だと思う。


今の世の中、そういった矛盾の行動が顕著に見える為、その側面で宗教というものを評価して悪きものと烙印を押す人が多いが、本質的な価値観はその人の捉え方によって全く違うものになる故に、それを評価するには、その教えをあなた自身が生活に反映してみてどうなのか検証し、体感して見つめて初めて宗教は必要かどうかを語る事ができるものである。


新興宗教においても、悪き側面が目立っているが、そこで何を教えとして追求しているのか、そういう目線で見れば、自分にとってプラスになるような閃きを得られるかもしれない。

先入観の評価でレッテルを貼ることから脱して自分で理解しながら、感じてみる。そして、本質的に何を言いたいのか自分なりで良いので結論を出してみる事で初めてどうなのか評価できるのではなかろうか。


そういう姿勢は宗教のみならず、生活全てに言えることではないかと思う。


人は、そういう自分で考え感じる事を無意識に蔑ろにしているからこそ、マインドコントロールや洗脳といった状態に入りやすくなってしまっているのだと思う。


だとすれば、私たちは宗教は必要かどうか?といった問いをする入り口にも立っていないということではなかろうか。

#16 いじめはなぜ起こるのか

人が人に対して攻撃的になるのは必ずそれには原因があります。しかしながら、誰しも、その原因と言うものがよくわからないままにしているから、そういう行動をとってしまうのです。


人は幸せを求めて歩んでいるので、人に対して幸せになってほしいと言う行動をするのが本当の人間だと思うのですが、そうではなくて、人に嫌なことをしてしまえば、その人は嫌な思いをするという事はわかっているはずなのに、そういう行動をやってしまうこと自体が、自分の中で幸せを求めて歩く自分自身というものに対して、矛盾が生じているということを考えなければなりません。


人が感情を感じるときには、それには一定の法則があります。そのことについて考えていきたいと思います。


感情を感じると言う事は、必ず相手が存在するのです。その相手に対してどういう感情のキャッチボールをするかと言うことで、その感情の法則と言うものがわかってくるのではないかと思うのです。


今回はいじめと言うテーマについて考えているので、いじめと言うテーマに絞って、その法則性と言うものを見てみたいと思います


Aがいじめる側Bがいじめられる側仮定します。Aはビーサンに攻撃的なことをすると、BはAに対して恐怖もしくは憎悪と言う感情を抱くのではないかと思います。この感情を示すBの反応に対して、Aは反応し、さらに攻撃をエスカレートさせるようになっていくでしょう。


そうなると、ビーサンの負の感情と言うものは、さらに大きなものになっていくでしょう。


ここからわかるように、いじめの感情のキャッチボールというものは、このAさんがBに対する攻撃的な感情と、そしてBがAに対する恐怖、憎悪といった感情のキャッチボールは延々と繰り返していき、これが円形のようにずっと回転していきながら続いていくことによって、さらにその勢いを増し、この感情のやりとりが莫大な大きなものになっていくのです。


これが執着するとこは一体どこになるのでしょうかAがBに対する攻撃的な感情というものは止まることがないのではないかと思います。


Bにおいてはどうでしょうか恐怖心と言うものはこれは増大していることを無気力起こします。そして目力が増大していくと、鬱や引きこもりや、そういった自分が殻に閉じこもるような行動をとっていくようになるでしょう。そして最終的には自分自身がよくわからなくなり、この場から逃げ出したくなり自殺していくような、そういう結末へと向かっていくような流れになっていく可能性があります。


憎悪というのはどうでしょうか。

憎悪というのは攻撃的な感情であるように思います。攻撃的な反骨心のような感情をを募らせていくと、相手に対する恨みが増大していき、恨みが積もり積もり重なって、それがもうはち切れそうになると、相手を殺害して消してしまうといった結末を迎える可能性があるのではないかと思います。


いずれにせよ、この負のスパイラルのキャッチボールでは、両者にとって幸せな結末とはは程遠い結果を迎えていくと言うことがわかるのではないかと思います。


では、Aは攻撃な感情を抱いてしまうような結果になったのでしょうか。

これが全ての発端なのではないかと思います。


考えられる事は1つだけです。


Aさん自身の中で、幸せを求めて歩もうとしていることに対する絶望と言うものが起こってしまったからである。

その時に、自分の中から湧き出てくる感情というものが表に出て形になったというのが、いじめという選択肢の中の一つのそういう行動になってしまったのではないかと思うのです。


人によっては、鬱になったり、引きこもりになったり、非行をするようになったり、家出したいなど、様々な形がそこにはあるのではないかと思います。


この原因というものをしっかりと自分自身が理解し、そして自分自身の力で解決していくようにならなければ、この問題の解決と言うものはできないのではないかと思うのです。